昭和42年03月20日 朝の御理解
ある方が熱心にご信心が出来ます。実に正確におかげを受けて、神様のお働きの間違いなさと言うか、素晴らしいタイミングのもとにおかげを受けておられる方です。その方が1~2ヵ月前からある一つの問題をお願いしてございまして、それももういよいよおかげになるかに見えました。と言うほどに家庭というものが順調でした。ところが咋日お参りして見えてから、そのことがおかげになってなかったんですね。
それで、その事を神様にお届けさせて頂きましたら、神様から、こう、水引がかかっておるところ 熨斗が付いておるですね。熨斗がこう海老のような熨斗がありますね。あの熨斗が、なんか糸でしたような熨斗が、一本一本こう引き抜かれてですね。熨斗がもう熨斗ではないような感じで頂くのですよ。ははぁこれはここにおかげが最後になって狂うて来たんだなと、こう思うたんです。
それであの、本当ですね。これは、言うならば、間違いなしにおかげになると、私も思うておったし、その方もおかげになる事を確信しておられました。なぜかと言うと、そこまでに至るまでに、実に見事におかげを受けるなあと言う感じてしたです。神様は、お働き頂いておる証拠だという風に、その、感じることがございましたから、自分も、いよいよ、おかげ頂くもんだとこう思うておる。
私もそう思うておったところが、咋日、その、おかげにないと言うのです。そしたらその方がですね、その事を私申しましたら、「先生、分からして頂きました。」とこう言うんです。その事を私申しましたら実はこのことが、このことが成就致しますための修行として、これこれの事は神様にお約束して、これこれの事は、いわゆる、お供えをさせて頂きますという。金銭とか物とかではないです。
これは自分の改まりという事についてのことが、これはお取り次ぎは頂いてはいかったけれども、自分の心の中で、神様に堅い堅いお約束のもとに、その事がお願いなされておった訳です。ところが、10日ほど前からですね、それがそれこそ一本一本抜かれるように崩れてしまっておったことなんです。しかし、私は、こういうその、人間のおかげということは、本当に、ある意味で厳しいことだなと思いますですね。
いわゆる、おかげが崩れていく訳です。それが最後に、自分が神様に、これこれの事はと、もちろん、それはお供えというても、金や物ではありません。自分の改まりのことについて、これだけは改まらして頂きますからと言うて、お届けをしてあった。そのお供えが崩れたから、おかげが崩れたという風に頂くんです。本当に、これは当然、頂かなければならなかった。
又改めて、その事をお願いさせて頂きますと言うて、今度はその自分だけでお願いなさっておったことをですね。お取り次ぎを頂いてから、そのことを改めて神様にお供えさせて頂くというて、お届けがございましたんですけれども。そのことから考えてみても、いかに、ただ、おかげが受けれなかった。これも、神様のご都合じゃろうと、只、おかげにだけ頂いではいけない事が分かりますね。
自分の信心の方が狂うておった、間違うておったことをですね。又神様にそうして堅く約束、心の中に誓わせて頂きさせておったことが崩れてくるから、神様のおかげの方も、やはり、崩れて来ておるということをですね、思わして頂かなきゃならん。これはおかげのことです。そこで私は思うですけどもね。このそういう日頃そこんところの稽古がなされていかなければならんという事は、信心の稽古ということです。
ここに日々、お参りをして来るという事が、こちらの信心の、第一学生が学校に通う様なものですから。これが信心の稽古ですけれども。幾ら通うて来てもです習うたことを実行しなかったり、習うたことが身に付かなかったら、そら稽古に通うておるけれども、通うておる値打がないという事なんです。そこで私思うんですけれども。本当に自分では難しいような、例えて申しますなら自分は非常によく腹を立てるという人はです。
今日一日神様腹を立てませんと言うようなことをです。教えに基づいて私は事実行していかなければ、稽古にならんと思うですね。今日一日は不足を申しません。今日一日は、腹をたてません。これは様々に、その人の 信心によって違うことであろうと思しいますし、又、改まらねばならんところも、めいめい違いますから。ですから、一日一日をですね。今月今日的な、私は、稽古ですね。
そして私は今日一日腹を立てなかったことが、お礼を申し上げる時の有り難さというものが楽しみになって来るとです。又明日ももう先生神様一週間はこのことは断ちます。一週間はこのことは、腹は立てませんと言った様な事はなかなか難しいですから。その日その日を私はお供えしていくということですね。腹を立てるということをお供えしていくということです。そこに例えば、腹を立てるという事をお供えすることが。
こんなにも有り難いもんだという体験を頂いて参りましてです。それが段々私は繰り返し繰り返し、場合には失敗も致しましょうけれども、失敗しながらでもその繰り返しそのことをお供えしていくうちにですね。お供えの有り難さということが、分かって来るように思うのですよ。そこに間違いのない私共のそうしたお供えが、神様が私共に対するところのお供えということになってくる。それがおかげでもあり又は。お徳でもあるのでございますから。
日々をですね、私はそういう例えば今日なら今日の御教えの中からです。この事をとこう思うたことを本気で、やはり日々今月今日が立ちゆけばとこう仰るが、今月今日が立ちゆけば楽と仰ることをそういう様なことにも通じると思うのです。どうぞそのそして今日一日というそのことの中から、稽古さして頂く楽しみとか、喜びというものが身について参りました時に、本当な改まりが出来るんじゃないかと言うふうに思いますですね。
どうぞ。